大阪地方裁判所 昭和61年(ワ)1542号 判決 1995年12月19日
原告
甲野春子
右訴訟代理人弁護士
川崎伸男
同
水島昇
同
横井貞夫
同
泉裕二郎
同
氏家都子
同
浦功
同
増田健郎
同
福森亮二
同
池田直樹
同
浅野博史
同
須藤隆二
同
片見冨士夫
被告
清水一行こと
清水和幸
右訴訟代理人弁護士
森田倩弘
同
森保彦
被告
株式会社集英社
右代表者代表取締役
若菜正
右訴訟代理人弁護士
星二良
同
高木佳子
被告
株式会社祥伝社
右代表者代表取締役
藤岡俊夫
被告
伊賀弘三良
右両名訴訟代理人弁護士
那須克己
被告
株式会社小学館
右代表者代表取締役
相賀徹夫
右訴訟代理人弁護士
木澤克之
同
藤原浩
主文
一 被告清水一行こと清水和幸(以下「被告清水」という。)及び被告株式会社集英社は、原告に対し、各自、金八八万円及びこれに対する、被告清水については昭和六一年三月九日から、被告株式会社集英社については昭和六一年三月八日から、各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告清水及び被告株式会社祥伝社は、原告に対し、各自、金八八万円及びこれに対する、被告清水については昭和六一年三月九日から、被告株式会社祥伝社については昭和六一年三月八日から、各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。
三 原告の被告清水、被告株式会社集英社及び被告株式会社祥伝社に対するその余の請求をいずれも棄却する。
四 原告の被告伊賀弘三良及び被告株式会社小学館に対する請求をいずれも棄却する。
五 訴訟費用は、原告、被告清水、被告株式会社集英社及び被告株式会社祥伝社に生じた費用の一〇分の九並びにその余の被告らに生じた費用を原告の負担とし、原告、被告清水、被告株式会社集英社及び被告株式会社祥伝社に生じた費用の一〇分の一を被告清水、被告株式会社集英社及び被告株式会社祥伝社の負担とする。
事実及び理由
第一 請求
一 被告らは、原告に対し、各自、金二二〇〇万円及びこれに対する、被告株式会社集英社、被告株式会社祥伝社及び被告株式会社小学館については昭和六一年三月八日から、被告清水については昭和六一年三月九日から、被告伊賀弘三良については昭和六一年三月一一日から各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告らは、原告に対し、各自、株式会社朝日新聞社発行の朝日新聞、株式会社毎日新聞社発行の毎日新聞、株式会社読売新聞社発行の読売新聞及び株式会社産経新聞社発行の産経新聞の各全国版社会面並びに神戸新聞社発行の神戸新聞の社会面に、見出し三倍活字、本文1.5倍活字、記名宛名二倍活字を使用して、別紙記載の謝罪広告を一回掲載せよ。
第二 事案の概要
一 本件は、原告が、被告清水が『捜査一課長』と題する推理小説(以下「本件小説」という。)を執筆し、その余の被告らが右小説を出版等したことにより、原告の名誉ないしプライバシーを侵害したとして、不法行為を理由として、その損害の賠償等を求めた事件である。
いわゆるモデル小説である本件小説につき、右不法行為の成否が問題となったものである。
二 争いのない事実等(一部、公知の事実、証拠及び弁論の全趣旨により容易に認定できる事実を含む。)
1 当事者
原告(旧姓乙川)は、昭和二六年八月三一日生まれの女性で、短大卒業後、昭和四七年四月から社会福祉法人甲山福祉センターが経営する精神遅滞児施設甲山学園において、同学園内青葉寮担当の保母として勤務していた者である。
被告清水は、作家である。被告株式会社集英社(以下「被告集英社」という。)、被告株式会社祥伝社(以下「被告祥伝社」という。)、被告株式会社小学館(以下「被告小学館」という。)は、いずれも単行本、雑誌等の出版物の刊行及び発売を目的とする株式会社である。被告伊賀弘三良(以下「被告伊賀」という。)は、昭和五四年五月当時、被告祥伝社の代表取締役の地位にあった者である。
2 本件小説
(一) 被告清水は、本件小説を執筆した。
本件小説は、神奈川県横浜市の精神遅滞児施設「光明療園」で発生した園児二名の死亡事件が殺人事件として捜査される過程を描いたものであるが、その中では、右施設の保母である「田辺悌子」が事件の被疑者として警察から特定されていく過程が描かれている。
(二) 本件小説単行本
被告清水は、被告集英社との間で、本件小説を単行本として出版する旨の出版権設定契約を締結した。
被告集英社は、昭和五三年二月二五日付けで(ただし、右は奥付の日付であり、実際の発行日は同月二〇日ころである。)本件小説単行本の初版を出版し、その後、三刷まで、合計部数五万三〇〇〇部を出版し、全国の書店で販売に供した(ただし、三刷以降の重版はしていない。)。
(三) 本件小説新書判
被告清水は、被告祥伝社との間で、本件小説を新書判として出版する旨の出版権設定契約を締結した。
被告祥伝社は、昭和五四年五月一日付けで右新書判の初版約二万部を出版し、被告小学館は、これを全国の書店で販売に供した(ただし、初版以降の重版はしていない。)。
なお、本件小説新書判の奥付には、被告祥伝社が「発行所」、被告伊賀が「発行者」、被告小学館が「販売」として、各記載されている。
(四) 本件小説文庫判
被告清水は、被告集英社との間で、本件小説を文庫判として出版する旨の出版権設定契約を締結した。
被告集英社は、昭和五八年七月二五日付けで本件小説文庫判の初版約一〇万部を刊行し、これを全国の書店で販売に供した(ただし、初版以降の重版はしていない。)。
3 いわゆる「甲山事件」
社会福祉法人甲山福祉センターが兵庫県西宮市で経営していた精神遅滞児施設甲山学園において、昭和四九年三月一七、一九日の両日、同学園青葉寮(中・軽度の精神遅滞児を対象としていた施設)の園児A女及びB男が行方不明となり、右一九日夜、同学園の浄化槽内において右両名の溺死体が発見された。
兵庫県警察本部は、B男の死体の状況等に鑑み、これを殺人事件と断定して、捜査本部を設置したが、前記青葉寮の園児からB男を連れ出したのは原告である旨の供述を得たこと等から、原告をB男殺害の被疑事実で逮捕及び勾留した。原告は、勾留中一旦は犯行を認める供述をしたが、その後否認し、神戸地方検察庁尼崎支部は、昭和四九年四月二八日、処分保留のまま、原告の身柄を釈放した。そして、原告は、昭和五〇年九月二三日、不起訴処分となった。
しかし、神戸検察審査会は、B男の両親の申立を契機として、昭和五〇年一〇月八日職権により右事件を立件した上、右不起訴処分の当否について審査を行い、昭和五一年一〇月二八日、不起訴不当の議決を行った。
神戸地方検察庁検察官は、昭和五一年一二月一〇日、右議決書の送付を受けて直ちに再捜査を開始し、昭和五三年二月二七日、原告を再逮捕した。原告は、検察官の取調に対し終始黙秘したが、同年三月九日、神戸地方検察庁検察官は、原告をB男殺害の公訴事実で神戸地方裁判所に起訴した。
神戸地方裁判所は、昭和六〇年一〇月一七日、原告に無罪を言い渡す判決をした。
右神戸地裁判決につき検察官が控訴したのに対し、大阪高等裁判所は、平成二年三月二三日、原判決を破棄し、事件を神戸地方裁判所に差し戻す判決をした。
右大阪高裁判決については原告が上告したが、これに対し、最高裁判所は、平成四年四月八日、上告を棄却する決定をした。
事件は、現在、神戸地方裁判所において、審理中である。
三 原告の主張
1 本件小説は、事件の内容(場所、日時、人物及び態様)、事件後の進展、捜査の進行について、「甲山事件」と非常に酷似しており、現実に発生した「甲山事件」をモデルとするものである。本件小説が発行されたころから現在に至るまで、「甲山事件」の内容、被疑者として逮捕されたのが原告であること等の事実関係は一般に知れ渡っていたから、本件小説は、その一般読者に対し、「田辺悌子」が原告以外の何者でもないとの印象を与えるものであった。
2 本件小説による原告の権利侵害
(一) 原告のプライバシーの侵害
(1) 犯罪捜査は、被疑者又は被告人(以下「被疑者等」という。)ないし事件関係者の私生活領域への侵入という側面を有している。捜査官から一方的な嫌疑を受け又は訴追されたというに過ぎず無罪推定を受けている者にとって、その生い立ち、家族関係、異性関係等の純然たる私生活に関する情報はもとより、被疑者等とされたこと、取調の経過、その他捜査資料等の捜査によって得られた情報は、他人に知られたくない個人の情報である。
右情報を、法の予定する手続過程(公開の法廷で陳述されたこと、判決確定後に記録が閲覧されたこと等により、一般人が知り得る場合がこれに当たる。)によることなく、これをみだりに公開することは、適正な刑罰権の実現という法本来の目的を超えるものであって許されず、プライバシー(原告に関する個人的な情報の一切が、他人による評価の対象とされないまま確保されている状態をいう。)として法律上の保護を受け、右情報を違法に公開することはプライバシー侵害として不法行為を構成する。けだし、自己が嫌疑ないし訴追を受けている犯罪事実等に関する情報が、法の予定する手続過程によらないで公開されることになれば、被疑者等に保障された憲法上、訴訟法上の防禦権や無罪推定の原則は、その実効性を失い、司法手続外で犯罪者としての制裁を受けかねない結果ともなるからである。
(2) 原告の個人情報そのものではないが、被疑者等とされている原告と極めて密接な関係を持つ捜査資料を公表することもプライバシーの侵害に当たる。鑑定書、報告書も含め、原告が問擬されていた被疑事実について、犯罪行為の存在及び原告と犯人との結びつきを立証する資料として収集作成された捜査資料は、一体となって、捜査官側の原告に対する嫌疑の根拠となっているからである。
刑事訴訟法四七条にいう「訴訟に関する書類」とは、被疑事件又は被告事件に関して作成された書類をいい、裁判所又は裁判官の保管している書類に限らず、検察官、司法警察員、弁護人等の保管しているものを含んでいる。しかも、同条は、司法警察員、検察官、裁判官などの国家機関に対して公開の禁止を義務づけるにとどまらず、全ての者に義務づけたものである。
(3) 本件小説は、これらの捜査資料を「田辺悌子」すなわち原告の嫌疑に結びつける形で公表し、原告が受けた嫌疑に関しての判断、評価の材料を一般人に提供したものである。本件小説によるこれらの捜査資料の公表は、原告が受けた嫌疑について、刑事手続外で違法に他人の評価にさらす結果となっているという意味において、原告のプライバシーの侵害に当たる。
(4) 本件小説は、本来秘密とされるべき(後日「甲山事件」の刑事公判で証拠調請求された)捜査資料を違法に入手して、捜査によって得られた原告に関する情報、すなわち、原告をモデルとする「田辺悌子」が被疑者等として警察に特定されていった経過、逮捕後の「田辺悌子」の取調官に対する態度や会話のやり取り、自白に至る経緯、自殺を図った事実及び嘘発見器の検査結果等の諸事実を、文中にそのまま引用して違法に公表したものであり、右の執筆、刊行及び発売は、原告のプライバシーの侵害に当たる。
(5) プライバシーとして保護される個人情報は、真実のものに限らず、創作による情報であっても一般人がそれを真実であると誤認し得るものを含む。
本件小説は、これを小説中でそのまま引用するなどして用いながら、さらに作者の想像を交えて、具体的に描写したものであるので、一般読者をして、右諸事実を真実ないしは真実らしく思うことは避けられないと言わざるを得ず、仮にフィクションの部分が含まれているとしても、原告のプライバシー侵害の事実を否定し得るものではない。
警察の発表とこれに基づく新聞等のマスコミ報道によって公表された情報を新たに再構成して小説の形で公表することは、仮に元の発表又は公表が正当なものであったとしても、プライバシーの侵害となる。
(二) 名誉侵害
(1) 本件小説は、「田辺悌子」が小説中の事件の犯人であるとの印象を一般読者に与えている。そして、本件小説の内容が「甲山事件」と酷似しており、その中で「田辺悌子」なる人物が原告をモデルとしているため、読者は「田辺悌子」、すなわち、原告と受け取る。したがって、本件小説の一般読者は、「田辺悌子」、すなわち原告が「光明療園」園児の「土井衛」、すなわち甲山学園園児のB男を浄化槽に落として殺害したとの印象を強く抱き、原告が「甲山事件」の犯人であると確信するに至る結果となる。
また、本件小説には、現実の「甲山事件」には存在しない、あるいは事実関係が異なる筋立てないし小道具が盛り込まれている。これにより「田辺悌子」の嫌疑を一層深め、同女を犯人とするための効果をますます強めた本件小説は、一般読者をして、現実の「甲山事件」には本件小説のような事実関係が存在したものと誤信させ、原告が「甲山事件」の犯人であるとの印象をますます強めさせることとなる。
被告らは、原告を「甲山事件」の殺人犯人と決めつける本件小説を執筆し又は出版、発売し、もって原告の名誉を毀損したものである。
(2) 原告は、いったんは逮捕され、犯行を自白したこと(実は、強制偽計による虚偽の自白であった。)を大きく報道されたものの、その後釈放され、自分が無実であることを訴える中で、マスコミの原告に対する見方も明らかに変化し、原告の無罪を確信する支援活動も盛り上がってきていた。確かに、本件小説単行本の発行当時には既に検察審査会の不起訴不当の議決がなされ、密かに捜査が再開されていたが、これらの点に対するマスコミの扱いは小さなものであり、「原告が『甲山事件』の犯人に間違いないとの社会的評価」などは存在しなかった。
ところが、本件小説の出版は、その内容、方法、時期において、新聞雑誌等の事実報道と比較にならないほどの原告の社会的評価の低下をもたらした。そもそも未解決の刑事事件の取扱いは慎重でなければならず、特に被疑者等になっている者をモデルとする場合には、その者が無罪推定を受ける地位にあることを害してはならない。無罪推定は刑事手続上の大原則であるが、刑事手続以外の社会生活においても同じく承認されている。本件小説は、現実に存在した「死亡事故」を素材として取り上げ、被疑者等の地位にとどまっていた原告を「殺人犯である。」とするストーリーを創作し、小説の形で出版したものであって、原告の名誉を甚だしく棄損している。
(3) 新聞及び週刊誌等が事実報道を基本姿勢としているのに対し、小説は、事実を素材としつつも、あくまで作者の自由な創作により、事実と異なる展開を自由に繰り広げることができるのであり、そのストーリーをいかに迫真性をもって表現するかが、まさに作者の腕の見せ所となる。また、新聞等は、事件の断片的な事実を途切れ途切れに流すため、その都度記事を切り抜いて整理し、後でまとめて読み直すなどしない限り、事件の概要を掴むことが困難であるのに対し、小説は、ストーリーが現実の捜査の流れに即する形で進行し、作家が手際よく事実をかみ砕き、自由な味付けをして一連の流れを説得していくものである。したがって、本件小説から受ける「真実らしさ」は、新聞等とは比較にならない。
(4) 本件小説は、単行本、新書判、文庫判として大量に出版され、全国ネットの流通機構に乗って、全国の書店に置かれ、販売後も被告らによって回収されることなく、そのまま読者の書架に長く保存されている。発行部数は新聞等に比べて少ないものの、新聞は日常的に保存されず、断片的事実が順次記事にされても順次捨てられていくのが通常であり、記事の取扱いも事件発生地を遠ざかるごとに小さくなるが、本件小説は、一連の事実をわかりやすくまとめて再構成しており、しかも原告を犯人であると表現している。
(5) 被告清水は、マスコミに対し、「私は作品の中で施設の保母をクロとしたが…」、「私は、いろいろなところから得た情報から推理、甲野さんが犯人に間違いないとの結論に達し、小説を書いた」などと発言して、本件小説が原告をモデルとした「田辺悌子」を犯人として描いていることを肯定していた。
(6) 犯罪の嫌疑を受けている人に関する論評を公表する場合には、その目的が「専ら公益目的」である必要があり、およそ「営利目的」に利用し公表することは許されない。被告らによる本件小説の出版行為は、紛れもなく「営利目的」であった。
3 被告集英社、被告小学館及び被告祥伝社の責任
現実にヒントを得て書かれた小説を出版する際、出版社は、作者に取材方法を問い合わせるなど、その作品の内容を厳重に審査し、自らの出版行為により個人の名誉を害することのないよう、万全の措置を講ずるべき義務を負う。
しかし、被告集英社、被告小学館及び被告祥伝社は、本件小説の出版又は販売の際に、右義務を怠った。
4 被告伊賀の責任
被告伊賀は、被告清水と被告祥伝社との間の出版権設定契約に基づき本件小説新書判を出版するに際し、その発行者すなわち出版に向けての一連の諸活動を一般的に監督する総轄責任者に就任し、発行及びそれに至る過程を指揮命令(主宰)したものであり、他人の名誉又はプライバシーを侵害する出版活動をさせないよう注意すべき義務を負っていた。しかし、被告伊賀は、本件小説新書判の発行に当たり、右義務を怠った。
5 原告の損害
本件小説の執筆出版により、原告は、甚大な精神的損害を被った。右損害に対する慰謝料は、少なくとも二〇〇〇万円を下らない。また、前記不法行為と相当因果関係にある弁護士費用は、二〇〇万円である。
6 よって、原告は、被告ら各自に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、金二二〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(被告集英社、被告祥伝社及び被告小学館については昭和六一年三月八日、被告清水については昭和六一年三月九日、被告伊賀については昭和六一年三月一一日)から各支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるとともに、民法七二三条に基づく原告の名誉回復のための措置として前記第一の請求二記載のとおり謝罪広告の掲載を求める。
四 被告ら共通の主張
1 本件小説について
(一) 本件小説は、「甲山事件」をヒントに執筆されたものであるが、その主題は捜査活動にある。被告清水は、昭和五二年三月ころ、「甲山事件」について、事件に対する社会的非難が強かったにもかかわらず、相当数の捜査陣を動員しているはずの警察が犯人を挙げられないことに疑問を抱くとともに、実際の殺人事件の捜査の難しさや捜査陣の苦労を痛感し、文学的創作意欲を刺激されたため、「甲山事件」を素材に捜査活動を中心とした小説の執筆を決意し、取材を開始し、同年八月に本件小説の執筆を始め、同年一二月に入稿した。
本件小説は、事件現場を神奈川県横浜市鶴見区獅子ヶ谷町の精神遅滞児施設「光明療園」とし、そこでの園児殺害事件を想定し、登場人物の人間性、感情、ものの考え方等は全て著者である被告清水の創作の下に、神奈川県警捜査一課長桐原重治と同県警鶴見署の刑事達の地味で真摯な捜査活動及び彼らが現代科学捜査を駆使して殺人犯を追及していく過程を描いており、結末としては、捜査陣が苦労して送検したものの、担当検事が起訴に消極的な意見であったため、改めて捜査官らに殺人事件捜査の難しさを再認識させるところで終わっている。以上のとおり、本件小説は、警察の捜査官を主人公とした被告清水の創作であって、原告をモデルとしたものではない。
(二) 本件小説は、捜査官により事件が解明されていく過程を、捜査官の立場から小説としてごく普通に描いたものであり、それ以上のものではない。一般的に、犯罪捜査に際し、捜査官は、被疑者を逮捕勾留して取り調べる以上、当該被疑者を犯人であるとの嫌疑を抱き、それを前提として行動するのが当然である。
したがって、本件小説が、事件の解明に当たる捜査官の主観に基づく捜査活動を描いたからといって、そのことだけで「田辺悌子」を犯人として描いていることにはならない。本件小説において、「田辺悌子」は、送検されたにもかかわらず、公訴提起されずに終わっているし、主人公である桐原重治捜査一課長も「田辺悌子以外に犯人がいるのかもしれない。」と述懐している。本件小説において、「田辺悌子」は容疑が濃厚な容疑者として描かれているに過ぎない。
2 原告のプライバシー侵害の主張について
(一) 捜査資料には、作成者、作成目的及び記載内容が全く異なった文書や資料が混在しているのが通常であり、捜査資料でありさえすれば当然に「個人的な情報」になり、プライバシー保護の対象になるものではない。原告は、捜査資料となり、かつ、原告の嫌疑と関連づけて公開されれば、どのような文書であっても原告のプライバシー侵害となると主張するが、右主張によれば、記載内容に関係なく、捜査資料かどうか及び資料の公開のされ方が原告の有利か不利かという外形的要素によって、プライバシー侵害の有無が決定されることとなり、妥当でない。
本件小説は捜査資料がなければ書けない部分など含んでいないし、原告の指摘する捜査資料は、そのほとんどが原告が提起した国家賠償請求訴訟において、国及び県から提出された供述調書であり、本件小説の出版当時未公開のものではない。
(二) プライバシーとして保護されるのは、個人的情報の中でも「その性質が純然たる私生活の領域に属し、しかも他人の生活に直接影響を及ぼさない事柄」あるいは「自分自身にのみ関係するに過ぎないと正当に主張し得る事柄」(以下、まとめて「私事」という。)である。原告が本件訴訟においてプライバシーとして主張する捜査資料は、原告の私事とはいい難い。
更に、私事であっても、それが公の利益に係わる事柄であれば、その公開を妨げられるものではない。本件で問題となっている「甲山事件」は、幼い園児が二人も行方不明となり、施設の浄化槽から見つかったという残酷な事件であり、このような事件に対し、社会の構成員である一般人が関心を持つことは当然かつ正当なことであり、事実を糾明することは社会全体の利益にもつながる。原告は右事件の被疑者として捜査の対象となり、被告人として刑事裁判を受けている者であり、「甲山事件」に関する限り、原告の私事であることを正当に主張できなくなっており、右の限度で原告のプライバシー保護の利益は失われている。
(三) 「甲山事件」は、その発生当初からマスコミ等でその内容、関係者の言動が極めて詳細かつ繰り返し報道されており、本件小説の執筆及び発行の当時、既に新聞週刊誌等で詳しく公表されていた事柄であって、何ら秘匿性はなく、原告に関する情報はもはや「他人の評価の対象にされないまま確保されている状態」からはほど遠いものであったから、原告のプライバシーは本件小説によって侵害されていない。
また、原告は、当時、自ら進んで、週刊誌記者らと会見したり、取調べ状況を記載したメモを公開し、テレビのワイドショーに出演するなどしていたから、プライバシーを放棄していたものである。
3 名誉侵害について
(一) 原告は、本件小説の出版当時、極めて容疑の濃厚な容疑者であるか(本件小説単行本出版時)、又は刑事被告人であった(本件小説新書判、文庫判出版時)ことは公知の事実であり、更に、「甲山事件」の真犯人にほぼ間違いないとの社会的評価を受けていた。
(二) また、本件小説は、当時報道されていた事柄を質的にも量的にも上回るものではなく、社会的評価を低下させていない。
本件小説は、読者に対する説得力を持たせるため、基本的事実をそのまま小説中に生かす努力がなされており、作者である被告清水が特別に手を加えることはしなった。創作部分は、事実と事実の間を埋める部分だけであって、しかも、合理的解釈の範囲を超えたものではなく、小説としてであれ論評としてであれ、社会的に許された範囲に属するものである。本件小説の「田辺悌子」に関する記述は、当時新聞等が原告に関して報道していた事柄を質的にも量的にも上回るものではなく、仮にメディアの違いを考慮しても、原告の社会的評価を低下させるものではない。
仮に、今後の刑事裁判において、原告が無罪とされることがあっても、それは右無罪判決が新たに原告の社会的評価を変動させる要因となるだけのことであり、本件小説の発行当時の原告の社会的評価に遡って影響を及ぼすものではない。
(三) 刑事事件における差戻前の一審と二審とで結論が異なったように、法律家の間でも結論を異にする「甲山事件」においては、被疑者等とされた原告を犯人であると一般人が考えたとしてもやむを得ず、原告が犯人であることが真実であると信じたことにつき相当性がある。
(四) 原告は、被告清水の「私は作品の中で施設の保母をクロとしたが…」「私は、いろいろなところから得た情報から推理、甲野さんが犯人に間違いないとの結論に達し、小説を書いた」との発言が、本件小説が原告をモデルとした「田辺悌子」を犯人として描いていることを肯定している、とするが、右発言はそのような趣旨のものではない。仮にそうであったとしても、ある表現が名誉毀損になるかどうかは、その表現者の内心ではなく、発表された表現自体によって判断されるべきものである。名誉毀損の存否は、当該表現自体がその対象となる人物が現に享受している客観的な社会的評価を低下させたかどうかによるのであり、それは当該表現に接した一般読者の認識を基準として決定すべきものである。
(五) 書籍は、購買意思のある者がわざわざ書店に出向いて入手しなければならない手数を要するし、本件小説程度の部数のものは大都市以外では書店に並べられることすらほとんどなく、読み終われば捨てられてしまい、後日の購入はほとんど困難であるという特殊性がある。
4 違法性阻却事由
(一) 仮に本件小説が原告のプライバシー又は名誉を侵害するとしても、「甲山事件」の経過と報道の実体を考えると、本件小説は、小説という形式をとった、原告に対する「公正な論評(フェアーコメント)」として違法性が阻却される。
(二) 本件小説が執筆出版された当時、「甲山事件」の容疑濃厚な被疑者等とされた原因は「公の存在(パブリックフィギュア)」となっていた。このような原告に対しては、刑事犯罪という公的性格から、一定の合理的限界内であれば、たとえそれが私生活の側面であっても論評が許されるところ、本件小説は、小説という形式をとった被告清水の原告に対する、右の合理性を充たした論評である。よって、本件小説の執筆出版は違法性が阻却される。
五 被告清水の主張
1 本件小説について
(一) 被告清水は、本件小説執筆に当たって、新聞、雑誌等で得られた「甲山事件」に対する報道事実は、できるだけ手を加えずに、真実の持つ説得力を生かし、事件の重要部分である原告本人の自白、園児の目撃証言、繊維の相互付着、ミカン、死体解剖の結果等についても、できるだけ集めた資料に手を加えずに忠実に載せることにした。仮に創作部分を加えるにしても、基本的事実から合理的に推理できる範囲を超えないようにした。
また、被告清水は、本件小説の事件の発生場所及び登場人物等を、「甲山事件」が発生した兵庫県西宮市から神奈川県横浜市鶴見区に移し、事件にとって重要な人物以外は創作したが、「甲山事件」で殺害された園児二名の遺族に対しては十分に配慮した。園児の一人の母親の手記は、被告清水に本件小説執筆を決心させたものの一つであるが、「甲山事件」の残虐さと犯人への怒りを一般の人々に対し訴えるため、本人の了解を得て本件小説中に引用した。
しかし、本件小説の中で、園児殺害についての結論を出さず、容疑者である「田辺悌子」を犯人と断定しなかった。「田辺悌子」が容疑濃厚な被疑者であったことは間違いないが、それでも犯人とは断言しないまま終わっている。本件小説は、「甲山事件」の客観的な報道事実に対して、作家としての主観を加えず正確に読者に伝え、無理なこじつけをやめて、現代の警察活動を信頼し、許すことのできない犯人が一日も早く検挙されることを期待して、「田辺悌子」以外にも犯人がいるかもしれないという可能性を残して終わっている。
「田辺悌子」は、その人間性そのものが被告清水の完全な創作に基づくものであり、原告をモデルにしたものではない。また、被告清水は、「田辺悌子」の私生活に関する描写は必要最小限のものに止め、異性関係についての描写は意識的に載せなかった。
更に、被告清水は、本件小説の冒頭に、「この作品は現実に起きた事件にヒントを得たものですが、フィクションであることをお断りします。」との断り書きを入れた。
(二) 本件小説は、昭和五〇年九月二三日に原告の不起訴処分があってから約二年五か月後に発表された。したがって、本件小説を読んだ一般読者が、本件小説の中の「田辺悌子」から原告を即座に連想するものではない。
仮に「田辺悌子」に原告の実像と偶然に一致する点があったとしても、被告清水は、既にマスコミにより報道されていた事実をはじめ、活発な取材活動によって得られた材料をもとに本件小説を執筆したのであって、本件小説は、初めて原告の私生活を公にしそのプライバシーを侵害したものではない。原告が「甲山事件」の被疑者として逮捕されマスコミに報道されるに至った時点で、原告に関する情報は公知の事実となり、秘匿性がなくなっており、原告においてプライバシーの侵害を主張しうるものではない(もっとも、前記のとおり、本件小説の中の「田辺悌子」の私生活に関する描写は、必要最小限の範囲のものしかないところである。)。
2 原告の社会的評価について
本件小説の発行までの間、「甲山事件」においては、園児二名の死亡、原告が園児二名に対する殺人容疑による逮捕、原告の処分保留のままの釈放、原告の国及び兵庫県に対する国家賠償請求訴訟の提起、園児の遺族の甲山学園に対する損害賠償請求訴訟の提起、原告に対する不起訴決定、園児の遺族の神戸検察審査会に対する審査申立、同審査会の不起訴不当の議決、前記損害賠償請求訴訟における園児遺族の勝訴、という経過をたどっていた。検察審査会が民間人が入って構成される機関であり、当時の世相を客観的によく反映するものであることを考慮すると、本件小説の発行当時、社会一般的に見て、原告が「甲山事件」の極めて容疑の濃厚な被疑者であり、これを不起訴処分にすることに対する反発及び抵抗は大きかったものと見ることができるのであって、原告の当時の社会的評価は著しく低下していた。このことは、本件小説発行とほぼ同時期に原告が再逮捕され、かつ、殺人罪により起訴されたことからも窺えるのであり、また、右再逮捕及び起訴の事実が大きく報道されたことにより、社会一般の人から見れば、やはり原告が「甲山事件」の犯人だったのかという感情を抱かせるに至っていたのであるから、原告の社会的評価はこれによっても著しく低下していた。
本件小説は、右のような時期に発行されたものであり、しかも、既に報道された事実を中心として描かれ、容疑者である「田辺悌子」を犯人と断定することもなく終わっているのであるから、原告の社会的評価を低下させたとは到底考えられない。
3 違法性阻却事由
「甲山事件」は、精神遅滞児施設内における園児二名の殺人事件であり、その犯人を挙げることは必要かつ重要なことであり、その報道が社会一般の多数の利害に関係する公共性を有し、公益性を有することは明らかである。
「甲山事件」においては、差戻前一審において無罪判決が出たものの、差戻前控訴審において破棄差戻とされ、差戻前上告審においても上告が棄却され、神戸地方裁判所において差戻後の一審の審理がなされているが、右差し戻し前控訴審の判決は、重要部分につき自らの解釈を示し、原告の犯行を極めて強く印象づける内容となっているのであり、有罪判決に近いものと評価できる。したがって、本件小説の真実性は証明されているが、少なくとも真実であると信じるにつき相当の理由がある。
4 消滅時効の抗弁
(一) 原告は、本件小説単行本が発行された昭和五三年二月二五日から原告が再逮捕された同月二七日までの間に、本件小説を読み、本件小説の執筆、出版及び販売の事実を認識していた。
(二) 右認識の時点から三年が経過した。
(三) 被告清水は、平成六年九月二七日の本件口頭弁論期日において、右の消滅時効を援用する旨の意思表示をした。
六 被告集英社の主張
1 本件小説について
(一) 本件小説は、被告清水がテーマ、題材を決め、その取材、執筆をした後、原稿が被告集英社に渡されたものであって、被告集英社は、本件小説のテーマの選択、取材及び執筆方法につき何ら関与していない。また、被告清水は独自の取材陣を抱えている作家であるから、その取材方法につき被告集英社が調査する義務はない。
被告集英社は、被告清水から本件小説の原稿を受け取った際、これを小説作品として読み、小説作品としてよいものかどうかを問題にするだけである。
本件小説をみると、そこで訴えられていることは、①捜査活動がいかに大変であるか、捜査員の苦悩、多数の捜査員による地味で気の長い活動に支えられていること、②「甲山事件」のような残虐で社会的問題性の大きい事件が真犯人が挙がらないまま放置されている現状にあることの問題点、である。右の主張を、読者に興味を持ちながらわかりやすく読んでもらい、かつ、理解してもらうために、本件小説は、桐原重治という捜査一課長を登場させ、被告清水の得意とする小説作法に従い、推理小説仕立てで表現している。
被告集英社としては、本件小説を小説として読み、かなりの調査の上で書かれた真面目な作品であること、実在の事件をヒントに書かれたため、登場人物を仮名とし、事件の舞台を移し替えるなどしていること、実在の人物との符合が問題となるとしても、マスコミにより報道されている限度では真実に反する部分はないと見受けられたこと、特定人に対する誹謗中傷的表現はないこと、私生活のプライバシーにわたる部分の描写がなかったこと、などを判断して、本件小説を出版した。
(二) 作家から受け取った小説作品中に、供述調書の体裁をとって書かれた部分があっても、出版社としては、作品の表現方法としてそのような体裁をとったものと考えるのが当然であり、供述調書をそのまま使ったものと考えることなどあり得ない。
また、被告集英社には、被告清水が捜査資料を違法に入手していたかどうかにつき予見する義務はない。
小説は、作家がその責任で創作するものであり、出版社が提供された作品につき勝手に修正をする権限はない。出版社が決定できるのは、当該作品を出版するか否かであるが、出版しなければ作家との関係で契約違反となる。被告集英社は、被告清水に対し、書き下ろし長編小説を執筆してくれるよう依頼し、その内容は被告清水に一任していた。
出版社としては、特別の事情のない限り、作品自体に現れた限度で注意すればよいというべきである。
被告集英社は、担当者二名及び編集長が本件小説をチェックしたが、本件小説は小説作品であり、しかも登場人物を仮名とし、事件の舞台も関東に変えた上、登場人物の描写も希薄にして私生活上の事柄には触れず、精神遅滞児施設であることを配慮するなど表現を穏当にする等の配慮がなされていた。更に、支援団体の動き及び捜査妨害の事実については当時の新聞縮刷版で内容を確認した。また、原告がマスコミを通じて積極的に発言していたことから本件小説を出版しても問題ないと判断した。そして、本件小説の中に、フィクションである旨の断り書きを記載して、読者に注意を呼びかけた。
(三) 本件小説に限らず、現代において、多かれ少なかれ実在の事件や事実をベースにしている小説は多い。
小説の概念及びその社会的機能についてはいろいろな考え方があり、また時代とともに変化していくものであるが、現代においては、ノンフィクションの隆盛に見られるように、事実の世界の前に小説の存在理由が問われ、その領域を狭めているともいえるのである。その結果、現代小説のある一定のジャンルのものとしてのフィクションとの区別は容易ではなく、全くの絵空事でない、実際の事実や事件をベースとして事実の重みを取り入れて説得力を持たせ、読者の共感を呼ぶような方法による小説作りを一般的とする傾向がある。現代の読者の共感を呼ぶためには、ただ「面白い」「楽しい」小説では足らず、作家の主張又は問いかけを含まない形ではあり得ないものとなってきている。小説とは、事実を記載したものではない。本件小説は、小説家である被告清水が「甲山事件」に関し評価し認定した事実に関する主張又は意見である。
本件小説は、マスコミの断片的な報道から事実を丹念に集め、事件の全体を再構築して小説作品として提示したものであり、そこに小説としての価値がある。むろん、事件全体の再構築のためには、断片的な事実の寄せ集めでは足りず、事実と事実の間を埋めるものが必要であり、その部分には、解釈された事実、推理又は推測された事実、言い換えればフィクションの部分が存在する。この部分こそ、作家独自の考え方による、独自の観点からの事実の捉え方があるのであり、作家の責任において提示される部分である。
原告は本件小説の右フィクションの部分を問題にしているものと考えられるが、断片的社会的事実からの推理や解釈が合理的である限り、当然表現の自由の範囲内にあるものとして許されるものである。そして、本件小説における解釈は、合理的で通常の解釈であり、悪意に基づくものとは到底考えられない。
(四) 被告集英社及び被告清水は、本件小説文庫判の初版を出版した後、更なる出版を中止したが、これは刑事事件に影響を与えることを配慮したためである。右事実は、被告らが本件小説出版に際し、十分に配慮した事実を推認させる。
2 名誉毀損について
(一) 「田辺悌子」を含めた本件小説の登場人物は、被告清水の創作であり、被告清水は「田辺悌子」を表現したのであり、原告を表現したものではない。被告清水は、大学卒業後故郷を離れて就職して一、二年目の二二歳の独身女性が、何を考え、どのように行動するかを想定しながら、「田辺悌子」を創り出した。仮に原告との間に符合性又は同一性があったとしても、当時報道されていた客観的事実、そこから解釈される事実、登場人物の内面、いずれにおいても経験則に従って合理的に解釈した場合の描写を超えるものではないから、到底名誉毀損には当たらない。
(二) 本件小説における「田辺悌子」と原告との同一性が仮に肯認されるとしても、本件小説は、「田辺悌子」が犯人であると決めつけているものではなく、犯人である容疑が濃い人物として描かれているだけである。当時の報道を見ても、原告は、極めて容疑の濃い人物とされていたのであり、本件小説は、これら報道の論調を超えた表現をしたものではない。
(三) 原告は、原告の無罪判決の後、被告清水が、新聞社の求めに応じ、自分の確信はあくまで原告の有罪であると述べたことを問題としているが、仮に被告清水が内心において原告が犯人であると考えていたとしても、本件小説において「田辺悌子」が犯人であると断定的に表現していない以上問題にならない。
(四) 名誉として保護の対象となっているものは、主観的感情や希望的観測ではなく、客観的で現実的な社会的評価であるところ、原告は、「甲山事件」につき、無罪を前提とした社会的評価を受けていないことは明らかである。一般に、公訴を提起されることは、少なくとも容疑があるということを意味するし、容疑が十分でなければ起訴されないから、一般的表現によれば「容疑が濃厚」ということになる。本件小説単行本の出版当時には、原告は公訴提起はされていなかったものの、後に検察審査会において不起訴不当の議決がなされたことからすると、潜在的容疑はあったものと認められる。また、本件小説文庫判が出版されたのは原告の公訴提起後であり、原告の社会的評価は本件小説単行本出版当時よりも更に低下していた。
また、無罪推定の原則があるからといって、被疑者ないし被告人に対し「容疑がある」又は「容疑が強い」との意見を述べることが常に名誉毀損になるものではない。
3 違法性阻却事由
当該事件が世間の耳目を集めたような公共性を有するものであった場合には、目的や手段が相当であるならば、当該事件につき「この被告人には容疑がある(又は容疑が強い。)。」との意見を発表することは許される。
「甲山事件」は、事件自体が特殊であったのみならず、事件発生後の原告を含む関係者がとった態度も世間の目を奪うものがあり、それを考慮すると、その公共性及び公益性は第一級のものである。したがって、表現の目的、手段及び方法が相当であれば、原告に容疑がある旨の意見を発表することは当然に許される。
4 消滅時効の抗弁
(一) 五(被告清水の主張)4(一)及び(二)に同じ
(二) 被告集英社は、平成六年九月二七日の本件口頭弁論期日において、右の消滅時効を援用する旨の意思表示をした。
七 被告祥伝社及び被告伊賀の主張
1 被告祥伝社及び被告伊賀は、本件小説新書判出版当時、本件小説が「甲山事件」にヒントを得たものであることを知らなかったし、被告清水が本件小説の執筆に当たりどのような資料を参考にしたのかも知らなかった。
被告祥伝社は、被告清水から、本件小説を判型を替えて発行しないかと申し出を受け、それ以前にも被告清水の作品を新書判で発行していたことから、右申し出を了承したものであった。
出版社が作品につき独占的な販売権を有していることはむしろ稀であり、通常有しているのは特定の判型に限定された出版権である。他方、単行本発行から新書判発行までの期間が短いことも決して稀なことではない。被告集英社発行の本件小説の単行本の発行と被告祥伝社の新書判の発行が近接しているからといって、被告祥伝社が事情を知悉して本件小説を発行したことにはならない。
もとより、被告伊賀は、被告祥伝社の本件小説新書判の発行につき、諸活動を一般的に監督する統括責任者であったことはないし、右発行を指揮命令したこともない。
2 消滅時効の抗弁
(一) 原告の支援団体である「乙川春子さんの自由を取り戻す会」が発行する「支援通信」昭和五四年七月号には、本件小説新書判が発行された旨の記載がある。したがって、原告は、遅くとも昭和五四年七月には、本件小説の発行及び販売の事実を認識していた。
(二) 右認識の時点から三年が経過した。
(三) 被告祥伝社及び被告伊賀は、平成六年九月二七日の本件口頭弁論期日において、右の消滅時効を援用する旨の意思表示をした。
八 被告小学館の主張
1 本件小説の新書判が発行された昭和五四年五月一日当時、被告祥伝社、被告小学館、訴外小学館販売の三者間における昭和四八年八月一八日付業務委託契約に基づき、被告小学館は、被告祥伝社から、同社発行の全ての書籍の販売業務の委託を受け、右業務を訴外小学館販売に代行させていた。
すなわち、通常、雑誌及び書籍類は、出版社から取次店へ、取次店から小売店へと、それぞれの販売委託契約の形態で流通に置かれるものであるところ、被告祥伝社は、昭和四五年一一月に設立された後昭和五六年二月末日に至るまで、取次店との間の販売委託のための取引口座を有していなかったため、被告祥伝社の発行する全ての雑誌及び書籍類に関する取次店との間の販売委託をなしえなかった。そこで、被告祥伝社の取引口座として被告小学館の取引口座を利用する目的で、前記業務委託契約が締結された。本件小説の新書判の奥付に「発売 小学館」との記載があったのは、右書籍の流通の関係上、小売店及び取次店からの注文又は返本の処理の宛先として、取引口座を有する被告小学館の表示をする必要があったためであるにすぎない。
被告小学館は、前記業務委託契約の期間中、被告祥伝社発行の全ての書籍を販売したが、各書籍の内容、定価、発行日及び販売部数等については被告祥伝社において決定し、被告小学館は関与しなかった。また、それらの販売についても各取次店に対し委託していたのであり、流通に関しては取次店と同程度にしか関与していない。
したがって、被告小学館としては、本件小説の内容、それが「甲山事件」及び原告と関連があることなどを認識しうる立場にはなかったのであり、本件小説の販売につき、原告に対し何らの責任も負わない。
2 消滅時効の抗弁
(一) 七(被告祥伝社及び被告伊賀の主張)2(一)及び(二)に同じ
(二) 被告小学館は、平成六年九月二七日の本件口頭弁論期日において、右の消滅時効を援用する旨の意思表示をした。
九 被告らの消滅時効の主張に対する原告の主張
1 書籍の出版は、これを流通市場に置くことであって、そうした状況が続く限り、名誉毀損の不法行為は継続しているのであるから、本件小説を一旦流通市場に置いた以上、これが回収されない限り被告らの不法行為は終了しない。したがって、本件において、原告の被告らに対する損害賠償請求権の消滅時効は進行しない。
2 仮に、消滅時効が進行するとしても、原告は、昭和六一年二月二五日、本訴を提起したので、これにより右時効はその進行を中断した。
第三 当裁判所の判断
一 本件小説執筆に係る経過
被告清水本人尋問の結果によれば、以下の事実が認められる。
1 被告清水は、昭和五二年春ころ、被告集英社から書き下ろしの長編推理小説の執筆の依頼を受け、これを承諾した。被告清水は、右執筆に際し、テレビの刑事物にないような地道な捜査活動の描写を通じて、本来の警察の姿、捜査方法を紹介する警察小説の形を取ることを構想した。
2 被告清水は、右構想当時、いわゆる「甲山事件」について、同事件は、精神遅滞児施設内にある浄化槽から園児二人の死体が発見された衝撃的かつ特異な事件であり、外部から隔絶された施設内での事件であるにもかかわらず、犯人が容易に断定されず、施設職員の組合が警察署周辺において、身柄拘束をされた原告を支援するシュプレヒコールをかけるなど捜査活動が妨害される状況の下で、警察は、一貫して地道な捜査を続けているとの認識を有していた。
3 そこで、被告清水は、前記1の構想に係る警察小説の題材として、「甲山事件」が適当であると考え、三人体制の取材スタッフを組織して、マスコミを中心とした周辺取材、更に、本件小説の執筆資料としての新聞、雑誌等の「甲山事件」に関する記事等の収集を開始した。なお、被告清水は、右取材の過程で、原告や「甲山事件」の被害園児A女及びB男の遺族等に直接面会して取材する方法は取らなかった。ただし、被害園児B男の母親に対しては、その手記(甲第二一号証と同じ内容のもの)の存在を知り、これを本件小説中で転用させてほしい旨の手紙を出して、同女の了解を得た。
4 被告清水は、昭和五二年八月に本件小説の執筆を開始し、同年一二月に被告集英社に対し完成原稿を交付した。
二 本件小説の内容について
1 成立に争いのない甲第一号証の一、二、第七号証の一、二、第八号証によれば、本件小説の内容は概ね以下のとおりである。
三月一七日午後七時五分、神奈川県警鶴見警察署獅子ヶ谷派出所に、横浜市鶴見区獅子ヶ谷町の精神遅滞児を収容する社会福祉施設である光明療園で一二歳の女子園児新田文子が行方不明となったとの連絡が入る。警察の捜索にもかかわらず、新田文子は見つからない上、更に一九日には男子園児土井衛が行方不明となり、結局、同日午後九時三〇分、園内の浄化槽から、右園児二人の遺体が見つかる。
神奈川県警捜査一課長の桐原重治ら捜査官は、状況から殺人事件と考え、捜査を開始する。施設職員に対する事情聴取がなされる中で、畔上浩指導員の非協力的な態度が際だっている。施設への外部からの侵入は極めて困難であることや被害園児の性格等から、犯人は施設内部の者であると考えられる。二二日の療園葬で、田辺悌子が「わたしがいけなかったんだわ。わたしのせいよ!」などと絶叫する。田辺悌子は、一七日の宿直であった保母であるが、その容姿は、「肩幅のがっしりとした、小太りで丸顔、髪を無造作に後ろで束ねた目の細い」女性と描写されている。
施設の用務員や他の園児の犯行の可能性も検討されたものの、結局、容疑は施設の職員である畔上浩、田辺悌子ほか二名に絞られる。また、土井衛の遺体の胃から発見された食後一時間以内の未消化のみかんの残滓も有力証拠とされる。
その後、田辺悌子が一九日にみかんを買ったとの証言が得られた。また、施設の他の園児から、田辺悌子が、一七日に新田文子を、一九日には土井衛をどこかに連れ出したことの証言も得られた。また、他の職員の証言から、一九日夜の田辺悌子の行動やアリバイにも疑問点が生じていた。
捜査本部は田辺悌子と畔上浩に対し任意出頭を求めるが、拒否される。捜査会議の結果、土井衛殺害の被疑事実で田辺悌子の逮捕状と捜索差押許可状を請求することに決まる。
四月四日、施設に赴いた捜査官に対し、田辺悌子は任意出頭を拒否し、逮捕状の緊急執行を受ける。畔上浩以下の施設職員組合員や扇動された施設園児の父母らが田辺悌子の引致を妨害しようとするが、警官たちに排除される。
田辺悌子は、引致後も犯行を否認する。田辺悌子のアパートが捜索され、一九日夜着用していた黒色のラッフルコート、引き出しの中にあった「えらいことをしてしまった」という走り書きのあるノート等が差し押さえられる。
捜査官同士の会話の中で、田辺悌子にポリグラフ検査をしたところ特異反応があったこと、施設の職員組合員や他の上部団体員が田辺悌子の身柄のある鶴見警察署にデモをかけ支援のシュプレヒコールを続けており、それが田辺悌子の供述に影響を与えていることが示される。
田辺悌子は、取調に対し、黙秘を続けていたが、捜査官の理詰めの取調に対し、アリバイ供述を微妙に変化させ始める。また、光明療園では、軽度遅滞の園児達の多くが始業式にも登園しないという事態となり、畔上浩が園児の父親の一人に糾弾される場面、畔上浩が施設の保母の一人を田辺悌子を官憲に売った者として糾弾する場面が挿入される。
有力な物証として、科学捜査研究所の定倍率顕微鏡では断定できなかった、土井衛のセーターと田辺悌子のラッフルコートの繊維の相互付着の事実に対し、電子顕微鏡を用いることにより、事件解明への光明が見出される。また、捜査官同士の会話の中では、新田文子の事件は過失致死、土井衛の事件は殺人であり、田辺悌子と男女関係にあった畔上浩が、田辺悌子から新田文子の過失致死の事実を打ち明けられ、土井衛の殺人を教唆したとの可能性が示唆される。
職員組合のデモや弁護士の接見により態度を硬化させていた田辺悌子であるが、四月一七日、組合員のシュプレヒコールの聞こえる中で、浄化槽のマンホールの上で折檻していると新田文子が暴れ出したため、手を滑らして浄化槽の中に落としてしまったこと、それを見ていた土井衛にみかんを与えて、外で食べようと言って呼び出し、浄化槽に連れていって落としたことを自白し、土井衛を抱え上げた方法を捜査官の前で実際にやってみせる。右自白後、房に帰りたくないといっていた田辺悌子は、その夜、ハイソックスやパンティの紐で自殺を図る。そして、翌一八日には、田辺悌子は、再び否認に転じる。
繊維の相互付着については合致に極めて近い酷似との鑑定結果を得ることができたが、担当検事は起訴に消極的な様子であった。捜査官の桐原重治が捜査に対する更なる努力を決意するところで本件小説は幕を閉じる。
2 以上に照らすと、本件小説は、神奈川県警捜査一課長である桐原重治を主人公として、殺人事件の捜査手法を写実的に描いたという側面も肯定できないものではないが、むしろ、本件小説は、その構成要素の重要部分が、精神遅滞児施設において園児二名が浄化槽の中から遺体で発見されるという特異な状況の下で、当該施設の保母が容疑の濃厚な被疑者として捜査の対象となるという過程を詳細に描写することによって占められていることは、前記1からも明らかであるところ、右に挙げた本件小説の構成要素の重要部分は、まさしく、前記第二、二、3記載の「甲山事件」の事実関係の構成要素と同一のものであることは疑いを入れないところである。前掲甲第一号証の一、二、第七号証の一、二、第八号証及び成立に争いのない第五号証並びに弁論の全趣旨によれば、本件小説の登場人物のうち、被害者である「新田文子」、「土井衛」はいうまでもなく、その他重要人物として登場する「田辺悌子」保母、「畔上浩」指導員、「坂井京治」園長、「駒村邦夫」副園長、「若原淳次」指導員、「池田好一」指導員、「中原保子」保母が、いずれも「甲山事件」の関係者である原告、C、D、E、F、G、Hであることは容易に認識することができる。右の各人物以外に、本件小説中で「光明療園」側の重要人物として登場する者はないに等しく、これらに匹敵するような人物も被告清水によって創造されていない。また、前掲甲第一号証の一、二、第五号証、第七号証の一、二、第八号証及び弁論の全趣旨によれば、本件小説に記載されている「光明療園」の施設の配置状況も、「甲山学園」のそれと基本的に同一であることが認められる。
また、前掲甲第一号証の一、二、第五号証、第七号証の一、二、第八号証及び弁論の全趣旨によれば、本件小説は、事件の舞台を、「甲山事件」が発生した兵庫県西宮市ではなく、神奈川県横浜市鶴見区としていることが認められるが、右のように事件の舞台を移したことにより本件小説の内容に影響があったかどうか、すなわち、周辺地域との関連から地域的な特徴が現れたかどうかという点については極めて疑わしいのであって、右は単に地名を形式的に置き換えたに過ぎないといわざるを得ない。
そうすると、本件小説は、「甲山事件」の要素となっている諸事実をそのまま用いた設定の下で、桐原重治以下の捜査官が「田辺悌子」を殺人事件の被疑者として特定し、身柄拘束した上で自白に追い込んでいくという過程を描いているということができる。
三 いわゆる「モデル小説」とプライバシー・名誉の侵害
1 実在の事件からの取材に基づいて執筆された小説において、その中で摘示された事実は、「小説」という表現形態の性質上、「作者の資料・取材等に基づく事実」(以下「素材事実」という。)と「作者がその想像で補った虚構の事実」(以下「虚構事実」という。)に概念上は区別され得る。虚構事実の全く存しないものはもはや小説ではない。
しかして、右のような実在の事件に基づく小説の執筆(事実摘示)の方法も一様ではなく、次の二通りがあるものと考えられる。すなわち、
(一) 小説の描写中において、素材事実が、(小説のモデルとなった)本来の事件をもはや具体的に想起させないほどに完全に消化され、作家の想像・虚構に基づく小説の構成要素に換骨奪胎されてしまった場合(もはや虚構事実そのものになってしまったといえるような場合もあり得る。)
(二) 小説の描写中において、素材事実の重要な一部ないし全部が、本来の事件を容易に具体的に想起させる程度に原形をとどめた形で、使用された場合
そして、右の(二)の型の小説にも、更に次の二種類の類型が存するということができる。
(1) 素材事実と虚構事実(及び作者の意見表明)との間が截然と区別されている場合
(2) 素材事実と虚構事実とが渾然一体となって、区別できない場合
右の(二)の手法により執筆された小説は、その取材元=モデルが容易に想起できるという意味で、まさしく「モデル小説」であるということができる。
2 モデル小説は、当該小説のモデルとなった事件(以下「モデル事件」という。)ないし個人の注目度ないし話題性ゆえに、虚構事実(フィクション)を織りまぜることにより、これに対する読者の関心を当該小説への関心に転換し、ひいては、多くの読者の講読意欲を高めて、これを取り込むことに執筆目的の主たる部分が存するということができる。この点は、新聞記事のみならず週刊誌の記事とも異なる特質を有するものである。
そして、モデル小説を読む際、一般読者は、その描写中の素材事実を具体的に認識し、それが自ら入手していたモデル事件の情報と一致することを認識し確認しながら読み進むのが通常である。けだし、マスコミが高度に発達し、その報道が事実関係につき極めて微に入り細に入る手法を確立しているという現状に鑑みれば、特に当該小説のモデル事件が実在の著名事件であった場合、読者は当該小説を読む以前にマスコミ等から右モデル事件に関する情報を既に入手しているのが通常であって、読者が当該モデル小説を通じて初めて素材事実に接するということはむしろ稀れであり、また、仮に読者が当該小説中において素材事実を認識・確認できないならば、当該小説は読者の関心を引くことができないため、前記モデル小説の執筆目的の主たる部分を達成することができなくなってしまうからである。これを作者の側からいうと、読者に右のような読み方がされることによって、当該小説はモデル小説として成功したものとなるということができる。
読者は、右のような認識・確認を経ることにより、当該小説の素材事実が真実であるとの印象の程度を更に高めていくのである。もちろん、右印象の程度は、実際の事件が発覚し報道された時期と当該小説の発行時点とがどれだけ近接していたか、実際の事件がどの程度マスコミの注目を集めていたか等にも依存する。
そして、虚構事実と素材事実との間の境界が明確でない前記1の(二)(2)の型のモデル小説においては、右のように素材事実が真実であるとの印象が強まることにより、右小説中、虚構事実又は単なる仮定的事実に過ぎないものを、あたかも素材事実であるか、又は素材事実同様の事実であるかのように、当該小説の一般読者に誤信させる結果となるということができる。
したがって、前記1の(二)(2)の型のモデル小説は、その作品形態自体から原則として、小説の中における摘示事実が素材事実か虚構事実かを問うことなく、モデル事件又はその素材事実に関係した個人にとって、当該摘示事実がみだりに公開されることを欲しない私生活上の事実である場合にはプライバシーの侵害となり、また、当該摘示事実が当該個人の社会的評価を低下させるような事実である場合には名誉の侵害となるものと解するべきである。
この場合、当該小説によるプライバシー又は名誉の侵害者側は、当該事実が素材事実でなく虚構事実であることを立証しても、そのことから直ちに右権利侵害の事実を否定するものではないというべきである。けだし、前記1の(二)(2)の型のモデル小説においては、その一般読者の見地からは当該摘示事実が素材事実から虚構事実を区分して、これを別個のものとして認識することはできないからである。
そして、①前記のとおり、モデル小説は、モデル事件ないし個人の注目度ないし話題性ゆえに、素材事実に虚構事実(フィクション)を織りまぜて迫真性等を持たせるなどにより、これに対する読者の関心を当該小説への関心に転換し、ひいては、多くの読者の講読意欲を高めて、これを取り込むことに執筆目的の主たる部分が存するものであって、本来、事実の客観的な論評ないし批判を意図し、これを目的としたものではないことの外に、②人は、小説のモデルとされることにより、多かれ少なかれ、その名誉ないしプライバシーが侵害されるので、本来、無闇に小説のモデルとされるべき理由がないのに対し、作家及び出版社は、当該モデルとされた個人の犠牲において営利を得るものであることなどの特質があるので、モデル小説の摘示事実がモデルである個人の名誉を毀損する内容のものであるときは、右小説の執筆出版は、原則的に違法性を有するというべきである。もっとも、当該小説の摘示事実が素材事実と虚構事実により渾然一体、不可分の関係において構成されながら、右摘示事実のうちの特定の素材事実、又は素材事実と虚構事実から演繹される特定の事実が当該モデル小説の骨格的要素をなしているときに、右骨格的要素をなす事実が公共の利益に関する事柄であり、かつ、真実であること又は真実であると信じるにつき相当の理由があることを立証したときは、例外的に当該小説の摘示事実全体の名誉侵害の違法性が阻却される場合があるというべきである。しかして、前記のモデル小説の特質等に鑑みるとき、右違法性が阻却されるか否かは、当該名誉毀損に係る摘示事実の内容、当該小説の主題及び性格、当該小説の骨格的事実と当該モデルとされた個人の社会的評価の低下との係わり、右事実と公共の利益との係わり及びその程度(その係わりが直接的なものか否か)、モデルとされる個人の社会的地位ないし立場、毀損される名誉の内容及びその名誉毀損の程度等の事情を総合考慮して判断すべきである。そして、右違法性が阻却されるのは、当該モデル事件等の公共の利益との直接的な関係において、当該小説の主題及び性格から、モデルとされた個人の名誉毀損の事実を押してでも、当該モデル小説を執筆出版することが適当とされるか、あるいはその必要性があると判断される場合に限られるべきである。しかしながら、モデル小説については、その特質及び形式等からみて、右要件を具備して違法性が阻却される場合は決して多くないといえよう。
3 なお、以上のように解したとしても、作家としては、虚構事実を交えず、素材事実のみに基づき、自己の意見表明の部分を明確にした前記1の(二)(1)の型のモデル小説(それは、もはや小説ではなく、「ノンフィクション」又は「評論」の手法に近いものとなるとも考えられるが、かつては「文学」と「小説」が同義語であったことを考えると、あながち奇妙なことでもない。)という手法を取ることによって、自らの表現作品の中で素材事実を摘示し、それを配列、編集し、本件小説と同じ内容の意見表明を行うことも不可能ではない。また、前記1の(一)の型の手法を取ることも可能であることはいうまでもない。更に、前記の1の(二)(2)型のモデル小説にあっても、可能な限り、モデルとされるべき本人の承諾を得た上、執筆出版することによって、これを補いうるところである。
もとより、表現の自由は民主主義の根幹をなす重要なものではあるが、小説又はモデル小説という表現方法又は形式の選択という点に関しては、他の表現手段を採りうる余地がある以上、人間の尊厳から直接的に導かれるべき人格権の一つであるプライバシー権又は名誉権に劣後する場合があると考えても差し支えないということができる。前記1の(二)(2)のモデル小説の手法による事実摘示が素材事実の関係者の権利を侵害する許されない表現方法又は形式であるとしたとしても、作家の表現の自由に対する不当な制限となるものではないというべきである。
四 本件小説のモデル小説性
本件小説について検討するに、本件小説が実際の事件である「甲山事件」を素材としたものであることは、明らかである。そして、その素材事実については、捜査に関する資料そのものの形式を巧みに踏襲すること(例えば、被害園児の解剖鑑定の結果、駒村郁夫及び田辺悌子の「供述書」、県警の北沢功次の捜査報告書等)により、あたかも捜査資料そのままを忠実に表現したかのような印象を強めている一方、捜査に対する原告の対応(事情聴取や逮捕に対する反応等を含む。)、園児の捜査官に対する供述態様や原告本人の取調状況、自白の態様、状況(この点が、「甲山事件」に関する刑事事件において、公判証言又は自白の信用性に関して重要な争点になっていることは公知の事実である。)等の事実についても、一貫して捜査官の視点から臨場感あふれる描写手法で表現しており、素材事実と虚構事実が渾然一体となって、容易に区別できず、両事実の誤認混同を伴う危険性が極めて高いものと評価できる。したがって、本件小説は、前記三で検討した1の(二)(2)の型のモデル小説の典型的なものとして、まさしくこれに該当するもの(そして、本件小説においても、前記①、②の特質を有する。)ということができる。
ところで、被告清水は、「甲山事件」の被害園児の遺族に不快な思いをさせたくないと考え、また、甲山学園が精神遅滞児の施設である点に配慮が必要であると考えて、本件小説の執筆上考慮し、学園内の保母も必要以上には登場させなかったし、「田辺悌子」についても、雑誌やテレビで得た原告の印象と異なるように、丸顔で小柄で活発な女性として描写するなどしたと主張する。しかし、他方、被告清水は、本人尋問において、「甲山事件」は、当時衆人の注目を集めていた事件であり、いくら小説であるからといって荒唐無稽、唐突なストーリー展開をすると、実際の事件につき知識を有している者は違和感を感じ、ひいては本件小説自体が失敗するおそれがあったので、基本的な事実は取材メモをもとにできるだけそのまま用いたとも供述しているのであり、仮に被告清水が前記配慮をしていたとしても、それは、「甲山事件」の基本的事実を動かさないとの限度内でのものに過ぎなかったのであるから、本件小説は、素材事実が「甲山事件」をもはや想起させないほどに完全に消化され、被告清水の想像・虚構に基づく小説の構成要素に換骨奪胎されたとか、虚構事実そのものになってしまったとは到底いえない。なお、本件小説の冒頭には、「この作品は現実に起きた事件にヒントを得たものでするが、フィクションであることをお断りします。」との文言が記されているが、右文言の存在により本件小説の内容や構成が変化するわけがないことはいうまでもなく、右文言の存在は前記の認定を何ら左右するものではない。
五 原告のプライバシー侵害の有無の検討
1 原告は、被疑者等に関する又はそれと極めて密接な関係にある捜査資料、その他犯罪捜査で得られた情報を、刑事手続又はそれに伴う公開の手続により一般人が知り得る機会以外で公開することは、直ちにプライバシーの侵害に当たると主張する。
しかしながら、特定の被疑者等の犯罪捜査によって得られた事実であっても、当該被疑者等の名誉又は信用に直接に関わる事項に係る事実でない限り、これを公開したことによって直ちに当該被疑者等のプライバシーを侵害することになることはないというべきである。なお、このことは、右情報の入手が違法な手段によった場合であっても、判断を異にするものではない(念のため付言するに、刑訴法四七条は、刑事訴訟に関する記録が公判開廷前に公開されることにより、訴訟関係人の名誉を毀損し、公序良俗を害し、又は裁判に対する不当な影響を引き起こすことを防止するために、あらかじめ訴訟関係書類を公にすることを原則として禁止した規定であって、右目的からすると、右刑訴法四七条は裁判官、検察官その他の訴訟関係人に対し、公開の禁止を訴訟法上義務づけているものであり、その違反が直ちに不法行為に該当するという趣旨のものではないと解されるから、右訴訟関係人以外の者はその対象ではなく、また、ある者が訴訟関係人から刑事訴訟に関する記録を事前に取得して、これを公表した事実があったとしても、その一事をもって、不法行為責任を負うこととなるものではない。)。そうすると、被告清水が本件小説において捜査資料から得た情報を公開したか否か、また、被告清水が「甲山事件」の捜査機関から違法に捜査資料を入手したか否かについて判断するまでもなく、原告の前記主張は理由がない。
2 なお、原告は、本件において、本件小説が個人がみだりに公開されることを欲しない私生活上の事実を公開しているとの主張を何らしていないから、当裁判所は、さらに本件小説が原告のプライバシーを侵害しているか否かにつき、判断に及ばないこととする。
六 原告の名誉侵害の有無の検討
1 前記のとおり、本件小説は、個々的事実を見たとき、一般読者において、素材事実と虚構事実が渾然一体となって区別できないモデル小説である。そして、本件小説は、前記のとおり「甲山事件」の重要な要素となっている諸事実をそのまま用いた設定の下で、桐原重治以下の捜査官が「田辺悌子」を殺人事件の容疑者として特定し、身柄拘束した上で自白に追い込んでいくという過程を詳細に描くことによって、素材事実と虚構事実の演繹的事実として、原告をモデルとする「田辺悌子」が「甲山事件」をモデルとする本件小説中の殺人事件の犯人である(ひいては、原告が「甲山事件」の犯人である)との印象を一般読者に対し与え、右事実をその骨格的要素として摘示していることが明らかである(なお、本件小説の最終場面での、本件小説の登場人物である捜査官桐原重治の「田辺悌子以外に犯人がいるのかもしれない。」との独白は、担当検事が起訴に消極的な態度を取るのに対し、再捜査の決意を固める桐原重治の脳裏を去来した述懐の一つとして出たものであるに過ぎず、本件小説の結論又は結末に当たっての作者の意見表明とは到底解することはできない。)。したがって、本件小説は、モデルである原告にとって、右摘示事実が原告の社会的評価を低下させるものであるので、原告の名誉を侵害するものであるというべきである。
そして、成立の争いのない甲第六号証の一ないし四及び被告清水本人尋問の結果によれば、被告清水は、取材の過程で収集した資料等を検討していく過程で、原告が「甲山事件」の犯人であるとの推理につき確信を得て、本件小説の執筆を開始したものと認めることができる。また、被告清水は、警察を主体とした小説という性質上、本件小説の描写は、主人公的立場にある捜査官たちの視点に立ったものとなり、その中で「田辺悌子」が容疑が極めて濃厚な唯一の容疑者として追及されていく過程を描く結果となることも十分認識していたと認めることができる。したがって、被告清水は、本件小説の執筆により、一般読者に対し、原告が「甲山事件」の犯人であるとの印象を与えることとなることを認識し、又は認識しえたと認めるのが相当である。
2 もっとも、被告清水の本件小説執筆の意図ないし認識は、本件小説の素材事実及び虚構事実が実際に存在したと仮定すれば原告が「甲山事件」の犯人である可能性が高いとするにとどまるものであったとの可能性が考え得る。しかしながら、本件小説は、前記のようにその手法と表現方法により、それ自体、現実にも、素材事実と虚構事実の誤認混同を生ぜしめる危険性が極めて高いものである。しかも、本件小説のモデルである「甲山事件」は、歴史的事実というにはいまだ到底至っていない上、原告の有罪無罪が刑事事件において現在に至るも、なお鋭く争われており、原告は、事件の被疑者・被告人として、極めて微妙で危うい立場にあったのである。かかる状況下にある原告をモデルとして小説を執筆出版するとき、多かれ少なかれ、その名誉ないしプライバシーを侵害する恐れがあったのであるから、被告清水としては、本件小説を執筆出版するに当たっては、その取扱いには慎重な上にも慎重であることが要請されたということができる。それにもかかわらず、被告清水は、前記のように素材事実と虚構事実の違いを明確にしないまま、原告をモデルとして、本件小説を執筆し、その中で、捜査官が「田辺悌子」を事件の容疑者として特定し、身柄拘束をした上で自白に追い込んでいくという過程を詳細に描くことによって、原告をモデルとする「田辺悌子」が「甲山事件」をモデルとする本件小説中の殺人事件の犯人であることを記述したのであって、その結果として、本件小説が一般読者に対し、全体として、原告が刑事公判で有罪になるか否かは別として、実際にも、いわゆる「甲山事件」の犯人である可能性が非常に高いとの印象を強く与え、これにより、本件小説出版当時における原告の社会的評価を低下させたということができる。したがって、被告清水の本件小説執筆の意図ないし認識が、本件小説の素材事実及び虚構事実が実際に存在したと仮定すれば原告が「甲山事件」の犯人である可能性が高いとするにとどまるものであったということはできない。
3 ところで、名誉、すなわち個人の人格的価値についての社会的評価は、決して不変のものではなく、当該個人の置かれた客観的状況によって絶えず変動するものである。したがって、名誉侵害、すなわち社会的評価の低下の有無も、絶えず変動する当該個人の社会的評価のうち、当該侵害行為時における評価を基準として、そのいわば基準値から当該侵害行為により評価が低下したか否かが判断されなければならない。本件小説による原告の社会的評価の低下も、本件小説単行本、新書判及び文庫判の各出版当時における原告の社会的評価を基準として、そこから本件小説による原告の社会的評価の低下の有無が判断されなければならない。前記認定のとおり、本件小説単行本が出版された昭和五三年二月二五日当時、原告は、既に、昭和五一年一〇月二八日に神戸検察審査会において不起訴不当の議決を受けており、昭和五三年二月二七日の神戸地方検察庁検察官による再逮捕を間近に控えていたのであるから、原告の社会的評価は相当に低下していたものと認めうるが、右事情の下でも、なお原告は相応の社会的評価を享受していたのであり、その評価自体、なお保護に値するものであったということができる。また、前記認定のとおり、本件小説新書判が出版された昭和五四年五月一日当時及び本件小説文庫判が出版された昭和五八年七月二五日当時は、原告は、既に、昭和五三年三月九日に神戸地方裁判所に起訴されていたのであるから、原告の当時の社会的評価は本件小説単行本出版の時点よりも更に低下していたものの、いまだ甲山学園の園児B男の殺害の公訴事実につき有罪の判決が確定していたわけではなかった(前記認定のとおり、実際は、その後の一審判決は原告の無罪を宣告し、その後、控訴審において破棄差戻判決が言い渡されて、その後、最高裁判所の決定により右破棄差戻判決が確定し、現在、なお、一審の神戸地方裁判所において審理中である。)のであるから、右事情の下でも、なお、原告は保護に値する相応の社会的評価を享受していたのであり、原告が「甲山事件」の犯人であるとの印象を与える事実を摘示する本件小説の出版により右社会的評価が低下したものと認めることができる。
七 被告らの違法性阻却事由の主張について
1 前記のとおり本件小説は、素材事実と虚構事実が渾然一体の関係をなしながら、本件小説の摘示事実のうち、その結論的事実ともいうべき原告をモデルとする「田辺悌子」が殺人事件の犯人であるとの事実が本件小説の骨格的要素をなすので、右事実が公共の利益に関する事柄であり、かつ、右事実が真実であり、又は真実であると信じるにつき相当の理由があるときは、例外的に本件小説の摘示事実全体の違法性を阻却する場合があるというべきところ、本件において、被告らにより、本件小説のモデルとされた原告が甲山事件の犯人であることが真実であること、又は真実であると信じるにつき相当の理由があることの立証がなされたということはできない(なお、本件訴訟において、原告が甲山事件の犯人であるか否かの観点からの実質審理はなされていない。この点は、本来、刑事裁判において確定されるべき事柄である。もとより、本件小説の執筆出版が違法であるか否かは、右執筆出版の時点を基準として、本件小説の執筆出版により原告の社会的評価を低下させ、もって、原告の名誉を毀損したといえるか否かの判断であるから、仮に、後日、原告が刑事裁判において有罪又は無罪のいずれになったとしても、そのことは、本件小説の執筆出版の違法性の有無の判断に影響を及ぼすものではない。)ので、その余の事情を考慮するまでもなく、本件小説による原告の名誉毀損の違法性は阻却されない。したがって、この点の被告清水の主張は理由がない。
2 被告らは、本件小説が「公正な論評(フェアーコメント)」であるから、仮に本件小説により権利侵害があったとしても違法性が阻却されると主張する。
しかしながら、仮に、表現活動につき、右の「公正な論評(フェアーコメント)」の理論により権利侵害の違法性が阻却されるべき場合があるとしても、本件小説は、原告をモデルとして、虚構事実(フィクション)を織りまぜるなどして、原告が殺人事件の犯人であるとの印象を強く与える内容のものであって、これをその骨格的要素とするものであるが、それは、およそ事実に対する批判・論評であるとは到底いえないというべきであるので、かかる形式、方法及び内容の表現活動についてまで、「公正な論評(フェアーコメント)」の理論の適用より、その行為の違法性が阻却されるとする余地はないというべきである。したがって、被告らの前記主張は理由がない。
3 被告らは、原告が本件小説の執筆、出版当時刑事事件の被疑者ないし被告人とされた「公的人物(パブリックフィギュア)」であったから、仮に、本件小説により原告に対する権利侵害があったとしても、それが合理的限界内のものである限り違法性が阻却されると主張する。
しかし、被疑者が直ちに「公的人物」に当たるか否かはさておき、「公的人物」であるからといって直ちにプライバシー権や名誉権の保護を享受し得なくなるわけではない。被告らが「合理的限界内のものである限り」とするのもその趣旨であろう。しかして、本件小説は、原告につき、いまだ被疑者ないし被告人の段階にあって、刑事裁判が確定していないのに、その区別が困難なまま素材事実と虚構事実を渾然一体として織りまぜて、原告が甲山事件の犯人であるとの印象を強く与えるものであって、その執筆、出版の目的も、多分に営利的目的にあり、公益を図るものとはいえず、かつ、前記のとおり本件において、被告らにより原告が甲山事件の犯人であるとの事実につき真実の証明がない(なお、本件訴訟において、原告が甲山事件の犯人であるか否かの観点からの実質審理はなされていない。この点は、本来、刑事裁判において確定されるべき事柄である。もとより、本件小説の執筆出版が違法であるか否かは、右執筆出版の時点を基準として、本件小説の執筆出版により原告の社会的評価を低下させ、もって、原告の名誉を毀損したといえるか否かの判断であるから、仮に、後日、原告が刑事裁判において有罪又は無罪のいずれになったとしても、そのことは、本件小説の執筆出版の違法性の有無の判断に影響を及ぼすものではない。)のであるから、本件小説による原告の名誉侵害が合理的限界内のものであるということはできず、本件小説の執筆、出版が違法性を阻却するものではない。したがって、被告らの右主張は理由がない。
八 被告らの責任について
1 被告清水の責任について
(一) 前記のとおり、本件小説は、原告の名誉を侵害するものであるから、本件小説を執筆し、また、被告集英社及び被告祥伝社との間で本件小説の出版権設定契約を締結し、その出版を許諾した被告清水は、原告の被った精神的損害を賠償する責任を負うというべきである。
(二) なお、被告清水は、原告が甲山事件の犯人であるとの事実が真実であることが証明されているか、少なくとも真実であると信じるにつき相当の理由があるとするが、この点が理由がないことは前記のとおりである。
2 被告集英社の責任について
(一) 証人大波加弘の証言によれば、以下の事実が認められる。
(1) 本件小説は、被告集英社から被告清水に対し、書き下ろし長編推理小説の執筆を依頼したことにより、執筆されたものであった。
(2) 被告集英社における本件小説の担当者は、被告集英社文芸出版部文庫副編集長の美濃部修と同編集主任の横山征宏であった。
(3) 通常、編集担当者は、作家から小説の完成原稿を受け取った後、これを読んで感想を述べたり、更なる書き込みを注文したりした後、用語、表現を含めた作品内容につき点検し朱入れを行う原稿整理をして、印刷所に渡すという過程を経る。小説に素材がある場合には、編集者においても新聞、雑誌等の刊行物で公表されている内容を一応調べたりすることがある。モデルが存在するような場合には特に注意し、表現上の注意を作家に促すこともあるし、地名や人名については仮名にして配慮したりする。
本件小説については、被告集英社はその取材には一切関わらず、被告清水から完成原稿を受け取った。その後、前記横山征宏は小説の出来映え等について検討した後、用語、表現等につき原稿整理を行った。前記美濃部修、横山征宏らの上司であった文芸書編集長の大波加弘もゲラ刷りに目を通し、「甲山事件」について原告の逮捕時に実際に支援団体による混乱があったのかどうか新聞の縮刷版で確かめさせたりした。大波加弘は、「田辺悌子」が原告をモデルにしていることは認識していたが、原告が既に新聞、雑誌等で積極的に外部に発言をしていたことから特に問題にはならないと考えていた。他方、大波加弘は、被告清水に対し、本件小説単行本の扉裏に「この作品は現実に起きた事件にヒントを得たものですが、フィクションであることをお断りします。」との文言を入れることを提案し、了承を得た。以上の過程を経て、被告集英社は本件小説単行本を出版した。
(4) 被告集英社の昭和五八年七月当時の文庫編集長山崎隆芳は、被告清水の要請を受けて、本件小説単行本に対し原告の支援団体から抗議があったことを認識しながら、本件小説文庫判の出版を決定したが、本件小説単行本の初版出版時から五年以上経過したことから、仮名遣いや差別用語についての点検等を含め内容を再度点検して、巻末に収録する解説文の原稿を依頼した後、本件小説文庫判を出版した。
(二) 以上により、被告集英社としては、本件小説が前記のように原告の名誉を侵害する内容であることを認識して本件小説単行本及び文庫判の出版を行ったと認めることができる。したがって、被告集英社には、被告清水と共に、本件小説単行本及び同文庫判の各出版につき、それぞれ独立に共同不法行為が成立するということができる。
なお、この点、被告集英社は、その対象となる事件が世間の耳目を集める公共的性格を有するとき、表現の目的、手段及び方法が相当であれば、本件小説において原告に容疑がある旨の意見を発表することは許されると主張するが、対象となる事件が社会の耳目を与えるものであるからといって、フィクションを織りまぜるなどしてモデル小説の形態を取って、一般読者に対し、原告が甲山事件の犯人であるとの印象を与えて良い理由はなく、本件小説の出版の目的、手段及び方法が相当であるとは言い難いので、被告集英社による本件小説の出版につき、違法性を阻却すべき理由はない。
3 被告祥伝社の責任について
(一) 証人渡部起知夫の証言によれば、以下の事実が認められる。
(1) 被告祥伝社は、被告清水から、本件小説の判型を変えて出版しないかと持ちかけられた。そのころまでに被告清水の著作の新書判を四冊出版していた被告祥伝社は、編集会議を開いて検討した上、右申出を受諾し、昭和五四年五月一日、本件小説新書判を出版した。
(2) 右出版に当たり、被告祥伝社においては、出版担当者である渡部起知夫が、親判である本件小説単行本を読んで、内容を検討していた。渡部起知夫は、被告清水に加筆修正の有無について尋ねたが、被告清水は加筆修正はないと答えた。本件小説単行本の中には「社会党」、「共産党」の表現が見られたが、当時被告祥伝社の編集部は作品中で特定の政党名を原則として使わないこととしていたので、渡部起知夫は、本件小説単行本から右の表現を修正した。また、渡部起知夫は、本件小説単行本に記載されていた「この作品は現実に起きた事件をヒントに得たものですが、フィクションであることをお断りします。」との文言をそのまま本件小説新書判にも転記することとした。
(二) 被告祥伝社は、本件小説新書判を出版した昭和五四年五月一日当時には、本件小説が「甲山事件」にヒントを得たものであることを知らなかったと主張する。しかし、成立の争いのない甲第九号証の一ないし八、乙第一ないし第一四号証(乙第四ないし第一四号証はいずれも枝番も含む。)によれば、「甲山事件」は、その発生時からマスコミにより繰り返し報道され、捜査や公判の状況を含めた事件の経過が一般社会からも注目され、衆人に知れ渡っていたものと認めることができるから、前記認定のとおり、被告祥伝社の出版担当者が、本件小説新書判出版までに本件小説の中身については検討し、また、本件小説単行本がフィクションである旨の断り書きを記載していることを認識していたことと照らし合わせると、被告祥伝社は、被告清水に右断り書きの趣旨を照会するなどして、本件小説が「甲山事件」をモデルにしたものであることを容易に認識したものと認めることができる。したがって、被告祥伝社の前記主張は理由がない。
(三) 以上により、被告祥伝社は、本件小説が前記のように原告の名誉を侵害する内容であることを認識して本件小説新書判の出版を行ったと認めることができる。したがって、被告祥伝社には、被告清水とともに、本件小説新書判の出版につき、共同不法行為が成立するということができる。
4 被告伊賀の責任について
証人大波加弘の証言によれば、書籍の奥付に出版権者である出版社の代表取締役の氏名が「発行者」として記載されることがあるが、これは出版法が効力を有したころからの慣行に基づくものであって、実際に代表取締役が文芸書の編集に携わることはないこと、被告集英社の代表取締役が書籍の出版に関わるのは発行部数を決定するための部数会議においてであり、その会議においても当該書籍の内容について詳細に知り得るものではないことが認められる。
右の事実は、同じ出版である被告祥伝社においても同様であると推認することができ、これを覆すに足りる証拠はない。そうすると、被告伊賀が本件小説新書判の奥付において単に「発行者」と記載されていたからといって、本件小説新書判の出版を実際に指揮命令していたということはできない。そして、本件小説新書判の奥付の記載という点を除いて、被告伊賀が本件小説新書判の出版を実際に指揮命令していたとの根拠について、原告らは何ら主張をしていない。したがって、被告伊賀につき、不法行為が成立する余地はなく、この点の原告の主張は理由がない。
5 被告小学館の責任について
証人渡部起知夫及び同新藤雅章の各証言並びにそれらにより真正に成立したものと認められる戊第一ないし第三号証、第四号証の一、一二によれば、被告小学館の主張1の事実(すなわち、本件小説の新書判が発行された昭和五四年五月一日当時、被告祥伝社、被告小学館、訴外小学館販売の三者間における昭和四八年八月一八日付業務委託契約に基づき、被告小学館は、被告祥伝社から、同社発行の全ての書籍の販売業務の委託を受け、右業務を訴外小学館販売に代行させていた。すなわち、通常、雑誌及び書籍類は、出版社から取次店へ、取次店から小売店へと、それぞれの販売委託契約の形態で流通に置かれるものであるところ、被告祥伝社は、昭和四五年一一月に設立された後昭和五六年二月末日に至るまで、取次店との間の販売委託のための取引口座を有していなかったため、被告祥伝社の発行する全ての雑誌及び書籍類に関する取次店との間の販売委託をなしえなかった。そこで、被告祥伝社の取引口座として被告小学館の取引口座を利用する目的で、前記業務委託契約が締結された。本件小説の新書判の奥付に「発売小学館」との記載があったのは、右書籍の流通の関係上、小売店及び取次店からの注文又は返本の処理の宛先として、取引口座を有する被告小学館の表示をする必要があったためであるにすぎない。被告小学館は、前記業務委託契約の期間中、被告祥伝社発行の全ての書籍を販売したが、各書籍の内容、定価、発行日及び販売部数等については被告祥伝社において決定し、被告小学館は関与しなかった。また、それらの販売についても各取次店に対し委託していたのであり、流通に関しては取次店と同程度にしか関与していない。したがって、被告小学館としては、本件小説の内容が「甲山事件」及び原告と関連があることなどを認識しうる立場にはなかったとの事実)を認めることができる。右事実によれば、被告小学館は、本件小説の販売に当たり、本件小説の内容に全く関与し得なかったと認められるので、本件小説の内容に問題があったとしても、本件小説の販売につき、被告小学館に不法行為が成立する余地はないということができる。したがって、この点の原告の主張は理由がない。
九 被告らの不法行為の関係等について
以上のとおり、被告清水、被告集英社及び被告祥伝社につき、それぞれ不法行為が成立する。なお、右被告らの各不法行為は、本件小説単行本、新書判及び文庫判ごとに独立に成立する。本件小説単行本の重版は、執筆及び出版とそれぞれ継続的な関係にある一個の不法行為を構成するというべきである(なお、被告清水と被告祥伝社の関係、被告清水と被告集英社の関係は、本件小説単行本、新書判及び文庫判ごとにそれぞれ各別に共同不法行為を構成する。)。
一〇 消滅時効の抗弁について
1 本件小説単行本についての被告清水及び被告集英社の責任について
成立に争いのない乙第二四号証、第二五号証の一ないし三、第二六号証、第三三号証、原告本人尋問の結果によれば、原告は、本件小説単行本が発行された昭和五三年二月二五日から原告が再逮捕された同月二七日までの間に、本件小説を読み、被告清水が本件小説を執筆し、被告集英社が本件小説単行本を出版した事実を認識していたことが認められる。
ところで、乙第三号証、証人大波加弘の証言によれば、被告清水は、本件小説を執筆し、被告集英社により昭和五三年二月に本件小説単行本初版三万部が、同年三月に第二版一万五〇〇〇部が、同年四月に第三版八〇〇〇部がそれぞれ出版されたが、その後、昭和五三年五月二三日、「乙川春子さんの自由をとりもどす会」なる原告の支援団体から右出版に対し抗議の申し入れがあったことなどを理由に、被告集英社は、以後、重版しないこととしたことが認められるところ、右事実によれば、本件小説単行本は、一部在庫があり、それが流通に置かれたであろうことを考慮しても、その後間もないころに、流通に置かれないこととなったと推認することができる。したがって、本件において、遅くとも、昭和五四年末ころまでには、既に本件小説単行本が流通に置かれなくなり、これにより、被告清水及び被告集英社の各不法行為は完了したということができる(なお、原告は、本件小説が流通市場から回収されない限り、被告らの不法行為が継続しているとして、それまで消滅時効は進行しないと主張するが、かように解すべき根拠はない。)。
したがって、前記のとおり、既に、原告は、本件小説を読み、被告清水が本件小説を執筆し、被告集英社が本件小説単行本を出版した事実を認識していたのであるから、本件小説単行本に関する原告の被告清水及び被告集英社に対する損害賠償請求権は、前記の昭和五四年末ころから三年の経過により時効消滅したということができる。
よって、この点の被告清水及び被告集英社の本件小説単行本についての消滅時効の主張は理由がある。
2 被告祥伝社の責任について
また、成立に争いのない丁第一〇号証の一ないし五によれば、原告は、遅くとも昭和五四年七月には、被告祥伝社が本件小説新書判を出版した事実を認識していたことが認められる。
しかし、本件小説新書判による原告に対する名誉侵害の不法行為は、昭和五四年七月以降もなお継続していたものと解するのが相当である。
確かに今日の出版事情からすると、本件小説新書判は、初版本のほとんどが流通に置かれた昭和五四年五月からそう遠くない時期には、書籍の流通市場から姿を消していたとの推認が成り立つ余地がないではない。しかし、証人渡部起知夫の証言によれば、本件小説新書判は、初版二万部が出版され、ほとんどは直ちに流通に置かれたが、一部は在庫として残されていたこと、本件小説文庫判が昭和五八年七月に出版されると本件小説新書判の出荷は鈍ったこと、原告の支援団体から出版について抗議のあった昭和五九年二月には本件小説新書判は在庫なしの扱いにされ、新たに流通に置かれなくなったことが認められるところ、本件小説文庫判が出版された昭和五八年七月の段階、更に被告祥伝社が本件小説新書判が在庫なしの扱いになった昭和五九年二月の段階で、本件小説新書判にどれだけの在庫量があり、そのうちどれだけが流通に置かれたのかについての被告祥伝社の主張立証は全くない(本件小説新書判の回収を図ったか否か、また、本件小説新書判の返本があったか否かについての主張立証もない。)。そうすると、右各段階において本件小説新書判の在庫があったことが前掲渡部起知夫の証言から認められる以上、本件小説新書判は少なくとも昭和五九年二月ころまで被告祥伝社により流通に置かれていたと推認するのが相当である。それゆえ、昭和五九年二月ころまで、本件小説新書判についての原告の被告祥伝社に対する損害賠償請求権につき時効が進行する余地はない。したがって、その後時効が進行したとしても、原告が昭和六一年二月二五日に被告祥伝社等を相手として本訴を提起したことにより、時効の進行が中断したということができる。よって、原告の右損害賠償請求権が三年の経過により時効消滅したとの被告祥伝社の主張は、理由がない。
一一 原告の損害と慰謝料額について
前記のとおり、個人の社会的評価は、当該個人の置かれた客観的状況によって絶えず変動するものであるから、名誉侵害、すなわち、右社会的評価の低下の有無のみならず、その程度も、絶えず変動する当該個人の社会的評価のうち当該侵害行為時における評価を基準として当該侵害行為によりどれほど低下したかが判断されなければならない。本件小説による原告の社会的評価の低下も、本件小説新書判及び文庫判の各出版当時における原告の社会的評価を基準として、そこから本件小説による原告の社会的評価の低下の程度がどれほどであったかが判断されなければならない。
被告祥伝社により本件小説新書判が出版された昭和五四年五月一日当時、原告は、既に、昭和五三年三月九日に神戸地方裁判所に殺人罪で起訴されていたのであり、しかも、本件小説単行本も既に昭和五三年二月二五日に出版されていたのであるから、原告の当時の社会的評価は本件小説単行本出版の時点よりも更に低下していたものと認めることができる。更に、被告集英社により本件小説文庫判が出版された昭和五八年七月二五日当時は、本件小説単行本及び新書判が既に出版されていた以上、原告の当時の社会的評価は本件小説新書判出版の時点よりもなお一層低下していたものと認めることができる。しかしながら前記のとおり、いずれの時点においても、なお原告が保護に値する相応の社会的評価を享受していたということができる。
原告の被った精神的損害の程度については、右に見た原告の社会的評価の低下の程度を勘案することが必要である。
更に、本件小説の各版の出版部数(本件小説新書判は二万部、本件小説文庫判は一〇万部)も、原告の損害の認定に当たって当然考慮すべきである。
以上の事情の外、その他一切の事情を勘案するとき、原告の被った精神的損害に対する慰謝料額としては、本件小説新書判に関する被告清水及び被告祥伝社につき各自金八〇万円、本件小説文庫判に関する被告清水及び被告集英社につき各自金八〇万円と認めるのが相当である。
一二 弁護士費用について
本件各不法行為と相当因果関係のある原告の弁護士費用に係る損害は、本件事案の内容、審理の経過、原告の損害額等に照らすと、被告清水及び被告集英社に対する関係で各自金八万円、被告清水及び被告祥伝社に対する関係で各自金八万円であると認めるのが相当である。
一三 謝罪広告について
原告の謝罪広告に関する請求について検討するに、前記のとおり原告は、本件小説新書判及び文庫判の出版後、原告を無罪とする一審判決がなされたものの、その後、控訴審において、右判決が破棄差戻しされ、現在、なお、被告人として刑事責任が追及されている状況にあるなど、現実問題として相当にその社会的評価が低下しているところ、前記のとおり被告清水、被告集英社及び被告祥伝社に対し、損害賠償責任を認めるほかに、謝罪広告の掲載を命じたとしても、その効果は極めて小さく、原告の名誉を回復するに適当であるとは言い難いので、本件につき、右被告らに対し、謝罪広告を命じないこととする。
一四 結論
よって、原告の請求は、被告清水及び被告集英社に対し、各自、金八八万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(被告清水については昭和六一年三月九日、被告集英社についは同月八日)から、被告清水及び被告祥伝社に対し、各自、金八八万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(被告清水については昭和六一年三月九日、被告祥伝社については同月八日)から、各支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を各求める限度で理由があるから、これを認容し、被告清水、被告集英社及び被告祥伝社に対するその余の請求はいずれも理由がなく失当であるからこれを棄却し、被告伊賀及び被告小学館に対する請求はいずれも理由がなく失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条を適用して、原告、被告清水、被告集英社及び被告祥伝社に生じた費用の一〇分の九並びにその余の被告らに生じた費用を原告の負担とし、原告、被告清水、被告集英社及び被告祥伝社に生じた費用の一〇分の一を被告清水、被告集英杜及び被告祥伝社の負担とし、仮執行の宣言は相当でないので、これを付さないこととし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官中路義彦 裁判官横山泰造 裁判官瀨戸口壯夫は、差支えのため、署名捺印することができない。裁判長裁判官中路義彦)
別紙<省略>